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パレスサイドメガネは、常に丁寧な仕事を心掛けています。

雑記雑記帳

目次


【ご挨拶】
 お陰さまで創業は昭和53年9月23日、随分長い月日が過ぎました。
「光陰矢のごとし」いまこの言葉を噛みしめています。たくさんのお客様と知り合い、たくさんの方から良くして頂きました。

 今から50数年前、銀座4丁目にある服部時計店(現セイコー株式会社)に勤務していた頃「メガネ」と関わりました。仕事は、当時まだ珍しかった二重焦点レンズの工場建設、東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、5か所の工場建設の認可を厚生省へ申請に行きました。
当時の厚生大臣は、のちに総理大臣を務めた鈴木善幸氏、医薬部外品製造許可の文字がとても誇らしく思えました。
Better Vision For Better Living 合弁企業「株式会社日米レンズセンター」の相手企業アメリカンオプティカル(AOC)の標語です。
当時、セイコー光学部の企画を担当していたコピーライター松本東洋氏は「見ることは人間の喜び」と日本語にしました。
50数年間、私を励ましてくれた言葉です。

商い(あきな)は、売り手と買い手の心と心のふれあい」

 昔、時計業界の大久保彦左衛門と呼ばれた高島勇三郎さんからの教えです。
体が震えたことをいまだに忘れません。
店は息子二人に任せました。「うそのない仕事師たれ」偉そうな事の言えない私からの偉そうな教えです。

平成29年3月24日 安藤茂樹

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【セイコーエプソン株式会社 光学事業部 御中】
 前略

 昨日は有難うございました。68歳にもなって、少しはしゃぎ過ぎましたが、念願のエプソンの頭脳をお持ちの皆様と面談できたことは私の喜びです。

40年以上も前、「レンズはVISTAではなくSEIKOブランドで、諏訪精工舎の技術力を持って製品開発を行うべき」と当時の服部時計店光学部部長に意見具申した。一笑に付されたが、私には先見の明があるかも?と思っている。
 もう一つの先見の明?
25歳のころ、当時の精工舎担当役員は浜野常務取締役、隅田川沿いのてんぷら屋の座敷に呼ばれ、精工舎技術陣の前で「何かしゃべれ!」急なお名指しには参ったが、「昨年結婚し、父に家を買ってもらった。部屋は台所を入れて4つ、もちろんSEIKOの掛け時計を各部屋にかけた、一カ月もすると時刻表示はバラバラ、近い将来正確な時刻をすべての時計が表示するようになる」
浜野さんは、
「な!面白いことを言うだろう」 今そうなっている。

こう書いて来ると随分と頭が良さそうだが、そんな事は決してない。
意志薄弱、自己管理不能、煙草はすんなり止められたが、欠点だらけの私が、それでもメガネにこだわって40余年過ごしてこられたのは、当時日米レンズセンター設立時の相手企業AOCの持っていた標語「Better Vision For Better Living」を光学部担当のコピーライター松本東洋氏は「見ることは人間の喜び」と訳した。私の心の支えとなった言葉です。

「優れた製品は正しく扱われ広く使われるべき」御社のレンズに対する私の思いです。
昨日も申し上げましたが、我々は屈折異常を矯正する仕事に携わっています。
我々はレンズとフレームを正しく組み合わせ、売り手、作り手として得る利益に付加価値を込める事のできる仕事をしています。31年前当時の平岡毎日新聞社社長と交わした約束「新聞社指定店として恥じることのない専門店運営を」私は忘れません。
後を継いだ息子には「うその無い仕事師たれ」と教えました。
草々

平成21年6月12日

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【医学部への入学が決まった学生さんへ
貴方には退屈な時間だったでしょうが、古稀を迎えた私には、若い医学生の貴方との会話は、とっても新鮮で楽しいものでした。
貴方のお母さんとの会話は、お互いに負けず嫌いな性格もあり「丁々発止」いつもあんなものです、これからも驚かないでください。
久しぶりにお会いした貴方は、お父上の経営する眼科で、以前お母様から紹介された時と随分と違って見えました。
きっと大学に入学し、医学生になられたことが大きな自信になっているのかと思っています。

今、ある経済人の遺稿集を読んでいます。その中に徳川慶喜候の家臣としてフランスで勉強し、帰国後王子製紙や国立第一銀行、日本赤十字社等500を超す企業を興した「渋沢栄一」講演の記述があり、その教えの中の、「信ヲ萬事之本ト為ス」が丁寧に解説されています。
私にはこの崇高な教えを語る資格などありませんが、私なりの考え、息子二人に店を任すにあたって「嘘のない仕事師たれ」と教えてきたことが少しあてはまるかなと思っています。
屈折異常矯正用具「メガネ」を作るとき、作り手として自分自身に対し「込める付加価値に満足のいく仕事を」と教えたつもりです。
マス媒体を使った広告の規模が、大きく売り上げを左右する世の中ですが、基本は「正しい事が、正しい事として通る世の中」〔最後の海軍大将井上成美〕商人としては「商いとは、売り手と買い手の心と心の触れ合い」〔SEIKOの大久保彦左衛門と言われた高島勇三郎さん〕この二つの教えかと思っています。
遺稿集は日産化学工業社長、会長を歴任した徳島秀一さん。ずーっと昔、徳島さんと私は、アイグラスダイレクト社長の中澤克之氏の父君〔当時NEC常務取締役〕に、日産化学工業本社がNEC のPCを大量に購入したことで、接待を受けました。
徳川慶喜が大政奉還をし、天璋院篤姫が千代田のお城を去る時駕籠で渡った橋がパレスサイドビル正面の平川御門の橋、駕籠で送られた先はそのすぐ斜前にあった一ツ橋家上屋敷〔現丸紅本社〕、その先の日本橋川に架かる橋が一ツ橋、そのすぐ先に日産化学工業本社があります。反対側の如水会館一階には渋沢栄一翁の胸像があり不思議な縁を感じています。

ある大学の医学部には「名医たるより良医たれ」と有名な教えがありますが、貴方が信頼のできるお医者さんになられることを期待しています。

平成23年2月27日 安藤茂樹

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「思いつくままに」
高原須美子さんにはブーゲンビリアの花が似合う!
 何の脈略もなくそう思った。
メガネのベストドレッサーに選ばれたことのある高原さんは、海部内閣の時経済企画庁長官、その後、野球連盟会長、フィンランド大使と、いろいろなお立場で活躍されていた。
 「一度フィンランドにいらっしゃい」高原大使ご本人からのお誘いをその場でお断りした私、高原さんは怪訝なお顔で「何故?」
そんな!!私なんかとてもとても・・・・・。今思うと汗顔の極み、悔やまれて仕方ない。蓼科の山の中で、高原須美子さんのご逝去を知った。

 その時、花に添えた手紙

 高原須美子様

 悲しい知らせは、蓼科の山小屋で朝の5時ごろ知りました。
昭和53年パレスサイドビルの中に店を出した頃、御主人は毎日新聞社出版局長、御嬢さんはまだ学生で、これほどまでに清潔感を感じさせる娘さんがいるのかと驚きました。
以来20年以上、ご家族皆様のお引き立てに感謝しています。
私は、高原さんが店のお客様だった事を生涯忘れることなく、そして誇りに思っています。ブーゲンビリアの花を随分と探しましたがありませんでした。
ランの花もきっとお似合いの筈と、勝手に決めてお送りします。
長い、本当に長いお引き立てを有難うございました。

2001年 夏

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「お客様、ゆかりさんのお母様へ」
悲しい知らせを息子から聞きました。
店は、お嬢様が勤められていた会社の、白山通りを挟んだ反対側に在ります。

私も昔、商社に勤めていたことがあって話が合い、お嬢様は随分以前からメガネとコンタクトレンズをお買い上げ下さるお客様でした。

会社をお辞めになって、お花関係のお仕事をはじめられたとお聞きしました。
ご本人のイメージにぴったりなお仕事を始められたと思いました。

いつも明るくて、清潔感いっぱいの、とても愛くるしい女性でした。
何時もセンスの良い、オシャレなやせっぽちさんでした。
ご家族皆様のお悲しみを到底理解する事は出来ませんが、心からのお悔やみを申し上げます。

平成23年1月7日

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ポインセチアの花 〜胆管癌術後一カ月、お見舞いに頂いたお花への礼状〜
 一生口にすることはない、そう思い続けて来た悲しい思い出があります。
小さな命が失われ、その最後の見送りに立ち会ったとき、「この子は、地球上にある美しいさまざまな色を見ることなく旅立ってしまった」との思いです。
小さな棺の中に貴女とご家族は、きれいな花をたくさん納められました。
花はかすんで見えました。私はあのときの光景を、忘れることはありません。
ポインセチアの真っ赤な花が目に沁みました。
あのときのあなたの悲しみに比べることなど出来ませんが、手術の終わりを12時間待ち続けてくれた家内には、どう感謝したらよいのか。
術後過ごしたICUとハイケアー室のベッドの中で、散々幻覚に悩まされました。
主な登場人物は、次男と娘、それになぜか貴女のご主人。
ベッドの中で身動きできない苛立ちを「あーしてくれ、こーしてくれ」と頼みました。
どんなに頼んでも三人は悲しそうな顔で何もしてくれません。
最後には大きな声で怒っていたようです。看護婦さんに、「誰もいませんよ」と声を掛けられ、我に返ることがしばしばでした。
今日、ご主人が見舞いに来てくれました。まだお腹にチューブが二本入っていますが、おかげさまで随分と元気が出ました。早く元に戻って、皆さんからのご厚情に報いたいと思っています。
有難うございました。

平成17年 冬

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【出会い】
 生後2ヶ月のカンナとの出会いは田無にあるペットショップ。
私と家内、長男の嫁と娘の恵子、4人で出かけた。
たかが子犬一匹のこと、店に入って驚いた!はじめに眼に飛び込んできたのは猫、アメリカンショートヘアー、後になって知った。160,000円消費税と保険料別途とある。
私が子供の頃、犬でも猫でも手に入れることはいとも簡単だった。
心して愛くるしさと価格を比べ、店内隈なく見渡した。
 いた!猫と同じ金額で可愛らしい犬。早速娘に声をかけた「どうだ?」
 娘の応えはそっけなく断定的だった「なに!この演歌っぽいのは」
それはしょうがない、だってこの子は柴犬君、日本を背負って立っている。
ぐるぐる店内見渡して、いい加減めんどうくさくなった頃、家内の腕の中にはポメラニアンの子犬がいた。
何かブツブツ言っている。「あなたのこと一生大切にできるかな」
おいおい、そんなに大袈裟なことか?もうどうでも良くなって、好きにしたらと開き直った時、家内の腕の中にいたのがゴールデンレトリバーの子犬「カンナ」、なに最初から決まっていたのである。リボンをつけてもらい保険契約をし、小さな箱に入れられて子犬は我が家に到着した。
八月に生まれ十月我が家に来た子犬の名前を考えることになり、娘恵子にその栄誉を与える事とした。もちろん我々三人の勝手な意見付きで。
十月は神無月、こんなにも可愛い命が来たのに神様が出張中は無いだろうと、カタカナで「カンナ」安藤カンナが承認された。
子供たち三人に躾をしなかったのに、子犬にだけするのは不公平と、雌犬としての礼儀、躾はなし。
正月に蒲鉾ぐらいは食べさせなくては、バナナ、リンゴ、虎屋の羊羹、牛の生肉、家内は私の箸の動きを見張っている。
上の孫(男の子)が3歳の頃、椅子から降りるとき、カンナを踏み台にしたことがある。その時カンナが私を見た眼の表情を、私は今も忘れない。
「どうしたらいい?」眼はそう訊いていた。嫁の前で「軽くなら噛んでよい」とは言えず、「我慢しろ」と眼で合図を送った。
孫が遊びに来てくれる、いろいろ訊いて見るとうちは回数が多いようだ、カンナの大きな功績だ。

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【1996年 秋 別れ】
 ゴールデンレトリバー♀12歳6カ月
名前は「カンナ」名付け親は娘

 今朝、家内の腕の中で静かに命の火が消えた。きれいな顔をしている。
長いこと背中をさすった私、苦しそうなカンナに願いとは別に「もう頑張らなくていいよ」と声をかけた。その言葉が聞こえたのか、荒い息遣いが静かになった。家内が私を見た。

 平成18年3月15日 朝6時30分快晴
小学校4年生の孫への報告は何度もためらった後電話でした。
つらい報告だった。孫のショックを和らげようと、一生懸命話した。
「カンナは有難うって言ってるよ、可愛がってもらったことを喜んでいるよ、苦しい病気から解放されて楽になったんだよ」「泣かないで」孫の泣く声が止まらない、悲しい気持ちの中で、素直に育っている孫の成長が嬉しい。私は孫との悲しい電話を終わらせる術を持たなかった。
つらい電話が何時までも繋がっていた。「ありがとう」と何度も言った。
悲しい電話の後に、悲しい電話が鳴った。この春小学校に入る下の孫からの電話には家内が出た。初めからしゃくりあげて泣き続ける孫に、家内の目にみるみる涙があふれた。聞きにくい孫の言葉の中に「お母さんも泣いてるよ」家内も孫を慰める言葉が見つからない。何度も言っている言葉は「ありがとう」。

 娘はカンナとはかなり良好な親友関係にあったようだ。長男からの電話に、周りが驚くような声を職場で上げたらしい。午後半休をとり駆けつけた。
電車の中で涙を隠すのが大変だったとは、後で聞いた。
アルストロメリアの花を真ん中に、カンナの枕辺にたくさんの花を置いた。
明るくきれいな色の花が良い、北を枕に横たわるカンナは花に負けない綺麗な顔だ。今年卒寿になる母には知らせていない。間もなくお彼岸、11年前85歳で亡くなった父の墓参りの時に話そうと、これ以上の辛い事の先送りをした。居間の真ん中の壁際に、小さくなって帰って来るカンナの居場所を家内は作った。
ここにもアルストロメリアの花が飾られている。

2006年 春

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バナースペース

パレスサイドメガネ

営業時間 10:00~19:00
    (土曜日は15:00閉店)

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